『達人のサイエンス』を読んだ。
日々の鍛錬を楽しむための本かなと!
プラトーを愛する
プラトーを愛するとは、自分の人生における本質的で永続的なものを愛するということなのである。
プラトー=学習曲線が平らになっている状態のこと。
目標達成だけに喜びを見出そうとしないようにしたいですね。
スキルアップだけを目的としない
達人と言われる人は、自己の技量を伸ばすことだけが目的で何かの技能に専念するのではない。 ほんとうは、彼らはまず何よりも練習が好きなのであって、その結果、上達は後からついて来るのだ。 そして上達すればするほど基本の動きを繰り返すのが楽しくなる、というサイクルができ上がる。
「好きなことで生きていく」時代になってきているとはいえ、スキルアップは二の次というは、現代社会の考え方とはだいぶ乖離しているように見えます。
好きとは?
「何よりも彼は、自らが楽しむためにバスケットボールをやっているんです。お金のためでもなく、人気を得たいというのではなく、偉業を達成したいのでもないのです。彼はただ、バスケットボールが本当に好きなのです。」
〇〇を楽しむためなら、能動的に□□に取り組めるかどうか。みたいなところに「〇〇が好き」というのがあるのかもしれないなと思いました。
ホメオスタシスの活動に気づく
ホメオスタシス=恒常性、変化に対抗して平衡状態を維持しようとする働きのこと。
というわけで、僕たちがマスタリーの道を歩み始めたときに、その変化に抵抗しようとする力が働きます。
ホメオスタシスの作用は、人間個人、家族、組織、文化に至るまで、あらゆる自己調整システムにみられるもので、身体・物理面の機能だけではなく、心理や行動の面でも当てはまるそうです。
つまり、マスタリーの道を歩めないのは自分の意思が弱いからだというのは、1つの可能性でしかないということですね。
システムのどこか一部が変化すれば、システム全体も変化しなければならなくなる。 だから、もし親しい人たちの中からあなたの自己改革を陰に陽に妨害しようとするものが出ても、それに驚いてはならない。 それはあなたの邪魔をしたいのではなく、単純にホメオスタシスの作用に過ぎないのだから。
マスタリーのエネルギーを得るために、ありのままを話す
ありのままを話すという方法が一番うまくいくのは、自分の思いを打ち明けるときであって、人を侮辱したり我を通すときではない。 またリスクや試練、あるいはエキサイティングしたりエネルギーが爆発しそうな状況などに直面したときにも、こうした方法でうまく克服できるだろう。
「ありのまま話す = なんでも言っていい」わけではない。自戒を込めて。
Connecting the dots
結局、人生には「平凡なこと」は何もないし、「つなぎにすぎない」ことなどあり得ない。 あなたのあらゆる行為、あらゆる考えは無数の糸によって互いに結びついている。 すべてのマスタリーの道は、最終的に1つに交わっているのだ。
禅の修行は表面上、座って限想したり読経したりすることで成り立っている。 それでも禅師は、石垣づくりや皿洗いなどの仕事と正式な展想との間に、本質的な違いはないと言うだろう。 禅者の修行状態は座って誤想をする態度だけでなく、中庭を掃く時の態度でも決まる。 こうした考え方は、禅のように深遠なものではない場合にもあてはめられないだろうか。 つまり特別なことから平凡なことに至るまで、すべてのことを修行の一部とするならば、人生において無駄だと思われていた多くの時間を改めて活用できるのではなかろうか