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「愛するということ」を読んだ


気になったところを抜粋しています。

愛は与えること

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愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。 愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。 与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて暖味で複雑である。 いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剣ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである。 性格が、受け取り、利用し、貯めこれといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている。 商人的な性格の人はよろこんで与える。ただしそれは見返りがあるときだけである。 彼にとって、与えても見返りがないというのは嘱されるということである。基本的に非 だま生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。 そのため、このタイプの人はたいてい与えることをいやがる。

2/

人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。 自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。 そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。 自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。 与えること自体がこのうえない喜びなのだ。 だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。 ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。 与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かちあうのである。 与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。 とくに愛に限っていえば、こういうことになる。 愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

愛の能動的性質の4つの要素: 配慮・責任・尊重・知

3/

配慮と気づかいには、愛のもう一つの側面も含まれている。責任である。 今日では責任というと、たいていは義務、つまり外側から押しつけられるものと見なされている。 しかしほんとうの意味での責任は、完全に自発的な行為である。 責任とは、他の人間が、表に出すにせよ出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。 「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である。

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責任は、愛の第三の要素、すなわち尊重が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。 尊重は恐怖や畏怖とはちがう。 尊重とは、その語源 (respicere =見る)からわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。 尊重とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。 したがって尊重には、人を利用するという意味はまったくない。 私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長 していってほしいと願う。 誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。

5/

人を尊重するには、その人のことを知らなければならない。 その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。 いっぽう知も、気づかいが動機でなければ、むなしい。 他人に関する知にはたくさんの層がある。 愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである。 自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。 そうすれば、たとえば、相手が怒りを外にあらわしていなくとも、その人が怒っているのがわかる。 だが、もっと深くその人を知れば、その人が不安にかられているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感にさいなまれているということがわかる。 そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何かのあらわれだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてではなく、不安にかられ、狼狙している人、つまり苦しんでいる人として見ることができるようになる。

ナルシシズムの克服

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能力にとって特別な重要性をもつ特質について論じることにしよう。 愛の本買について先に述べたことにしたがえば、愛を達成するための基本条件は、ナルシシズムの克服である。] ナルシシズム傾向のつよい人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。 外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験されるのだ。 ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。これは、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを、自分の欲望と恐怖によってつくりあげたイメージと区別する能力である。

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人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければいけない。 自分の生活全体をこの目的に捧げなければならない。 謙虚さや客観性を場面によって使い分けることはできないが、愛も同様である。 他人を客観的に見ることができなければ、自分の家族を客観的に見ることもできない。 その逆も同様である。 そして、愛の技術を身につけたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。 また、どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。 他人とその行動について自分が抱いているイメージ、すなわちナルシシズムによって歪められたイメージと、こちらの関心や要求や恐怖にかかわりなく存在している、その他人のありのままの姿とを、区別できるようにならなければならない。

愛とは能動性

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愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。 愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。 信念の習練について、これ以上なにか言うことがあるだろうか。だれかほかの人だったら、もっと言えるかもしれない。

9/

先に述べたように、能動とはたんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いることである。 愛は能動である。 人を愛するとき、私は愛することができる。

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